2008年12月6日 全損保学習会 講演録 1945・8・6 私の体験と平和への思い 二度と被爆者が出ることは許さない


 横山さんの家で、姉の幸(さち)と孝(たか)と節(せつ)と私忠彦、そのあとには、親父が帰ってきて、一間を借りてずっと生活をするのです。治療をするのですが、村というからには、開業医もいたのだろうと思うのですが、すぐ薬がなくなっちゃうんですね。多くの被爆者の大火傷につける薬がなくなってしまう。
 今から申し上げることは、姉の2人から聞いた話なのですが、大火傷をした節につける薬は、最初、ヨーチンなんかはあったそうですが、すぐになくなってしまう。横山さんの家で食用の油を分けてもらって、その油を火傷に塗ったのだそうです。それが唯一の薬だったそうです。真夏ですから、その火傷に蝿が飛んでくるのですね。蝿が飛んできて卵を産み付けます。卵が、すぐに蛆虫にかえるのです。白い蛆虫が火傷の上をうごめく、ひしめく、本当に真っ白になるくらいに。それを看病している姉2人が割りばしで取るのだそうです。ただ、ああいう動物でも口ばしを持っていて、肉に噛み付いて離れまいとするのだそうです。そうすると痛いから泣き喚く。「お姉ちゃん、やめて」って。でもとらないといけない。とってしまう。ひどくなると、一つ一つ、つまんでとるわけには行かない。腕なんかのところはそぎ落とす。
 でも、とうとう彼女はなくなりました。1ヶ月、生き残ったのですが、9月10日に亡くなりました。亡くなるときの言葉がね、「お姉ちゃん、ゆで卵が食べたいよ」と言って死んだんだそうです。普通、幼児だったら、「お母さん」といって死ぬのだろうけれども、「ゆで卵が食べたい」というのは、いかにお腹をすかせていたか。確かに家も何もきれいに焼けているので、生き残ったものの、着の身着のまま、お金もない。どうして食べていったのか分からない。こじきのようなことをやっていたんじゃないかと思うのですが、食べるものも食べられない状況の中で死んでいった。それで「ゆで卵が食べたいよ」という、8歳の子が死ぬときの言葉とは思われない言葉を残してなくなりました。戦争とはむごいものだと思います。


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 私はね、火傷はたいしたことはなかったんですが、実は横山さんのところに行ってから、もう高熱を発して意識不明になっていったんです。原爆症特有の症状がでましてね、顔中に斑点がでたり、歯茎から出血、鼻血が出たり、いわゆる下血(げけつ)、腸内で出血して止まらないんですね。というのは放射能を浴びていますから、僕は血小板がつくれなかったんじゃないかなと思うんですね。というのは、血が出たら止まらないんですよ。後のことですが、小学校でこうして授業を受けていましてもね、突然何もしないときにウワッと鼻血が出たりするんです。それで、止まらない、というようなことをずっと体験しました。そういうようなことで、他には症状としては髪の毛が抜ける。お腹が本当にパンパンに大きくなって張れるというようなことがあったのだそうで、私はもう6カ月間意識不明で、何度もお医者さんからは「もうだめだよ」というようなことを言われたそうです。
 それが何とか運強く生き延びてきたんですね。翌年の2月末に何とか布団から出ることができたというふうに聞いています。ただ、布団から出ることはできたのですが、今度は脚が立たなくなりました。伝い歩きから練習しまして、その年の4月に安村の小学校に1年生で入学をするのですが、学校まで歩けませんでした。だから姉2人が交互に背負って通学させてくれたのです。だから1学期の間、体操なんかずっとできなかった。見学だけ、というようなことでした。
 その2月末にようやく布団から出ることができた、その時にはじめてお袋がいないことに気がついたんですね。それで「おかあちゃんは」と聞いたら、泣きながら、「実は8月8日に死んだんだよ」という。こういうことを聞いてしまったんですね。
 私はずっと人事不省だったのですが、あの戦争でお袋と兄貴と姉2人をなくしちゃったのですね。原爆投下では一挙に3人が亡くなった。その原爆が落ちるまでは、階級も上の軍人の家庭でした。広島に親父がいる頃は、軍隊から自動車が迎えに来たのですね。時々、軍馬を連れて迎えに来てくれた。そういうことで、裕福で女中さんも2人いて、という家庭だったのです。だから、食べ物も満腹で食べれて、幸せだったんですが、あの8月6日を境にして本当に惨めに暗い家庭になってしまいました。性格もいじけちゃったのですね。小学校のときは本当にもう、どうしようもないような、いじけた暗い、悪い子どもになったんです。


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 小学生になったら、また広島市街に帰ってくるのです。親父が仕事を見つけましてね。現在でいう厚生労働省の出先機関があって、引揚者のための業務を行う仕事が見つかって、勤務することになった。安村から通勤することは到底不可能なので、焼け残ったぼろっちょい家を借りて、そこで生活するようになりました。小学校も転校したのですが、その小学校の時、8月6日に死ぬべくして運よく生き残っていた子どもたちは、ほとんど死にました。当時は校舎も一棟しかなく、階段の踊り場でも勉強をしているような学校で、一クラス50数人いたんですが、20人くらいは被爆者でぽつぽつ、ぽつぽつ、いつの間にかいなくなってしまう。あとから考えると「あいつも原爆を受けておったな」ということがわかって、今、クラス会なんかやると「あいつとあいつは原爆で死んだんだ」という話になりますが、そのようなことで小学校くらいをしぶとく生き延びた人間は、私みたいに何とか現在まで生き延びているんだろうと思います。そういう人間が、現在でも広島、長崎合わせて20万人弱いるという格好になります。
 その後、ABCCという、アメリカ軍の原爆放射線影響研究所が比治山にできました。学校で勉強していても、ABCCから米兵がジープで乗り付けてきまして、「原爆を受けたものは手を挙げろ」といって、何気なく手を挙げたらそれまでなのです。「ヘイ、ユー」って、全員出て来いって言われて、ジープに乗っけられて、バーっとABCCに連れていかれるのですね。何をするかというと、本当に素っ裸にされる。前後左右から写真をまず撮られて、血を取ったり、髪の毛を取ったり、なんだかんだと検査漬けです。僕等は免疫が弱かったですね。冬だったら、まず大風邪をひいて、青汁の鼻をたらして、それを拭くものだから、服の袖がテカテカになるような、そういう時代だったのですが、そういう子どもがABCCに連れて行かれましても、注射1本、投薬一つしてくれません。本当に研究だけなのです。わびしかったですね。ただ、帰るときにキャンディをひとつくれるのです。これは本当に美味しかった。
 何せ、焼け野原でしょう。食べるものなんてありません。だから、学校をサボって田舎にこっそり行って、あるものを何でもかんでも盗んでくるような少年だったのです。イチジクとか、柿だとか、あればもうご馳走さまってもので、そうして過ごしました。惨めな生活でした。この写真は、広島駅の場所から撮影した写真ですが、薄く富士山のような島が見えるでしょう。これは、似島(にのしま)という島です。それが広島駅から見える。原爆というのはありとあらゆるものを壊してしまう。焼いてしまう。この島まで何キロあると思いますか。
 だから、僕は絶対平和主義者です。労働組合は賃上げとか職場環境だとか、そういうものが主であって、平和運動なんかする必要はないという意見は昔からあります。僕が勤務していた東京海上なんてさらにひどかったですね。「組合で平和運動なんかする必要はない」というようなことを言っていました。だけど、こんな街になったらどうしますか。働く場所もないのですよ。生活する場所もない。家族もみんな殺されてしまう。そういうことになっていいのか、と私は言いたいと思うのです。というより、いつも言っていることなのです。


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 ここに1冊の本があります。この本の題名は「1985年6月に世界核戦争が起こったら」がメインテーマで、サブテーマが「人類と地球の運命」です。出版元はスウェーデン王立科学アカデミー。ノーベル賞を出すアカデミーですね。ここが、世界の20名近くの著名な学者に、このテーマに基づいて論文を書かせたのです。その著名な科学者というのは、あらゆる分野の科学者です。経済学、農林水産、大気汚染、その他ありとあらゆる分野にわたって、「85年6月に核戦争が起こったら、人類と地球の運命はどうなるんだ」ということが書かれました。これは、その日本語訳です。
 この地図が、本の付録ですが、スウェーデンで作った地図ですから、ヨーロッパが真ん中にあって、日本はここです。アメリカはこっちです。赤い点々がついているのですが、85年6月に核戦争が起こったら、この赤いところにミサイルが飛んでいって、全部やられてしまうということです。日本は関東地方から南、九州まで、もろに赤くなっています。ヨーロッパはむちゃくちゃですね。フランス、ベルギー、イギリス、イタリア、スイス、ドイツ。アメリカでも五大湖の辺り、ボストン、ニューヨーク、ワシントンDC、ロサンゼルス、サンフランシスコ。こういうようなところは全部真っ赤になっています。
 この本の一節をちょっとだけご紹介します。
 85年6月に核戦争が起こったらね、「即死したりあるいは早い段階に死亡する人々の数は7億5千万人、攻撃される各都市の50%規模に達し、約3億4千万人が重傷を負う。さらに、生き残った人々のかなりの部分が放射性降下物にさらされて、急性の放射線症にかかる。十分な救済衛生施設もない中で、コレラや赤痢が急速に蔓延する」。こういうことが実際に起こるとなっています。そしてですよ。「農業や自然の生態系は放射線その他で弱体化して、害虫の攻撃に対して弱くなって、ゴキブリやねずみ、死肉を食べる鳥、好気的腐敗生物がどんどん増えていく」と、最後には生き残った少数の人―核シェルターに入っていた人たちも出てみたら誰もいない、というような中で死に絶えるというのが結論です。  1985年6月の人類の持っていた核兵器は約5万発といわれています。現在は人類の英知によって、3万2千発くらいまで減ったといわれています。ただ、能力は飛躍的に向上している。だから、そういう意味では、僕は5万発時代と大して変わらないだろうと思っています。そうすると、「85年6月にはこうなりますよ」といわれているのですが、現在の世界で核戦争が起こったら、関東地方から南は全部だめになりますよ。皆さんも一発で死んでしまうという瀬戸際で、現在、生き残っているのですよ。そこをぜひご理解いただきたいのです。
 だから、核兵器は廃絶せねばならなないということなのです。愛する子どもたちや孫のために、どうあっても核兵器はなくさなければならないということになると思うのです。仕事に励んでいても核兵器はなくならない。仕事はほどほどでよいのです。核兵器をなくすために、みんなでぜひ力を合わせていただきたい。


核をなくすために


 2010年にはNPT再検討会議がニューヨークで開かれます。5年ごとに再検討会議が開かれるのですが、2000年、2005年には、僕はニューヨークに行きました。どうも見るべき成果がないままに来ていますが、今度はアメリカ大統領がオバマになったし、少なくともブッシュよりはまともな感じはします。多少好転はするかも分からないという状況の中で、どうあっても核兵器はなくすということを世界中の市民が求めていけば、為政者、政治家は言うことを聞かなかったら弾劾されます。
 そのためには僕たち原水協や、被団協では2010年にむけて核兵器なくせの署名運動をやっていますが、ぜひ全損保でもとりあげていただきたい。ただ、これは自分だけ書けばいいというものじゃないのですよ。今日聞いていただいたことを、みなさんは特に労働組合の幹部の方ですから、所属する支部、分会でぜひ広めていただいて、そして、聞いた人たちが、また自分の胸だけでとどめるのでなく、家庭にまで持ち帰っていただく。家庭内で、「こういうことで署名するのだから、隣の奥さんにもしてもらってくれよ」と広めていっていただきたい。核兵器をなくしていく。そうした力をぜひ貸していただきたいと思います。
 私はどこでもこれをお願いするのです。去年はロシアにいって話をしました。そうしたら、署名用紙を学校の生徒たちは持って帰ってくれるのですね。家に帰って、親父やお袋のサインをもらって、いっぱいにして持ってきてくれる。こういう経験をしました。アメリカでも、フランスでも、イギリスでも、カナダでもそういうことを体験してきています。子どもたちは純粋です。そういう未来のある子どもたちにこの地球を贈り届けるために、ぜひ今日お話を聞いていただいたみなさんにご協力を訴えまして、私のお話を終わりたいと思います。
 ご静聴、どうもありがとうございました。








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