スコープNIU

全損保結成60周年 記念シンポジウム 2009年11月12日 於)星陵会館

パネリスト
瀧徹次氏  1997〜2001年度全損保委員長
加藤寛氏  2002〜2003年度全損保委員長
加藤健次氏 弁護士(東京法律事務所)
1988年弁護士登録。東京法律事務所。自由法曹団、日本労働弁護団の一員として、国鉄の分割民営化の際の採用差別事件や国立病院の独立行政法人化に際しての雇い止め・労働条件切り下げ事件などの労働事件にとりくんできた。顧問弁護団の一員として、全損保のたたかいを支えてくれている。
DVD出演
本間照光氏 青山学院大学経済学部教授
1971年共栄火災入社。本社財務部財務課・証券課、川越支社で8年間勤務し、その間に共栄支部本社青年婦人部書記長や職場委員を経験。埼玉県立高校の教員を10年勤めた後、北海学園大学経済学部教授を経て、現在、青山学院大学経済学部教授。保険、共済の領域で研究を進める。著書に「社会科学としての保険論」(小林北一朗[1899−1944]との共著 汐文社)、「保険の社会学」(勁草書房)、「団体定期保険と企業社会」(日本経済評論社)など。
フロアー発言
松井陽一氏 全証労協議長・全国金融共闘事務局長
コーディネーター 吉田有秀(全損保委員長)
決意表明     浦上義人(全損保書記長)
資料:再編「合理化」情勢の深まりと全損保の運動(1996年10月〜2008年末)

吉田  全損保は60周年を迎えますが、それまでの50年を引き継いだ「この10年」にスポットを当て、どんな思いでとりくんだのか、なぜたたかいに立ち上がったのか、職場に何を伝えたいかということを語りあっていただき、全損保がいまここにある値打ちに確信をもち深める場にしたいと思います。
 この10年、損保の再編「合理化」情勢が深まり、企業破たん、全員解雇、統合問題という経験したことのない出来事が次々と起きました。そのなかでも、第一火災に対する戦後初めての業務一部停止命令、2000人の従業員の全員解雇という問題では、全損保は組織をあげてかつてないたたかいをすすめました。

第一のたたかい
本当の相手・金融行政に挑んだ人間ドラマ
加藤寛 加藤寛  忘れもしません。労働者の祭典である5月1日のメーデーに、第一火災への業務一部停止命令が発表されたのです。その日付だけでなく、第一火災の破綻は、再編合理化情勢第一幕の象徴的なできごとであり、歴史的な「事件」だったと思います。これは業界全体への信用の失墜を今に残し、従業員・契約者へ犠牲を押し付けたという点で、最たる「事件」だと言えると思います。この「事件」の加害者は直接的には、放漫経営を続けた経営者です。しかし、そのトップは代々大蔵官僚の天下りポストだったのです。何度も検査に入り大蔵省の監督下にあった会社なのに、それを黙認・放置しつつ、アメリカのいいなりに損保を自由化し、直前に契約者保護機構の設置を業法で決め、真っ先に第一火災をやり玉に挙げ、実際にそのスキームを使って第一火災を解体していったのも金融行政。最初から最後まで、この国の金融行政が、第一火災を解体に追い込んだ、これが第一火災の「事件」です。
 対して、第一のたたかいはどうだったのか。一つ目の特徴は、この破綻の背景にある金融行政にまっすぐ挑んだたたかいだったということです。
 金融監督庁に選任された保険管理人は、最初の団交で「あなた達の会社は破綻したということを認識してもらいたい。保険業法がなければ全員路頭に迷うところだ。我々が来たから何とか賃金も払える。6臨など論外だ」と言い放ちました。第一支部、第一外勤支部の仲間はその言葉は忘れないと思います。そして管理人が示してきた処遇は、内勤社員に対しては「月例の10%カット、6臨はゼロ」。外勤社員にいたっては「現行制度通り」、つまり、歩合給で、募集を禁止されていいますから、収入ゼロというものです。これが5月11日です。
 この時は、これで時間をおいたらもたないなと思いました。破綻自体が大変なショックで、各支社におしかける契約者への対応で職場は散々な状態になっている。そこにこの回答ですから皆普通でいられるわけはないわけですね。しかし、「どうしようか」なんてじっくり議論をしている暇はない、走りながら考えるしかない、そんな状態だったと記憶しています。
 すぐに、その場から金融監督庁に電話し「明日とにかく会え」とアポを入れ、翌日、両支部執行委員と金融監督庁に駆け込みました。行政ですから「私たちに責任がない」ということも平気で言ってくるわけですが、このままでは帰れないと、一旦中断して、一日に二回、金融監督庁を相手に団体交渉をやりました。これは後にも先にも初めてのことだと思います。その結果、金融監督庁が動きました。翌日、保険管理人は、外勤には「昨年年収の7割分を月例換算して払う」、翌週には、内勤にも「月例10%カットを5%カット。6臨は0.5か月支給する」と回答を修正してきました。微々たるものですが、とりあえず一息つくには大きな値打ちがあったと思います。最終的に第一支部は、6臨については、1か月まで積み上げさせ、月例のカット分は3月までに全部とり返しました。その後も、金融監督庁には多い時には月に4回、交渉に行きました。「要請」ではなく文字通り団体交渉をしたという手ごたえを感じることができました。後半に他支部・労組の応援もうけて、大蔵省前で座り込みも行い、警察が機動隊まで準備するというぎりぎりのところまで座り込みを続けました。行政も我々のたたかいを正面からうけとめていた証拠だと思います。たたかいのなかで実感として、たたかう相手は誰かということをみんながつかみ、ぶれることがなかった、これが、最後まで団結が崩されなかったこのたたかいの特徴だと思います。
 二つ目の特徴は、産業に視点をおき「国民・消費者のための損害保険をめざす」という全損保で一貫してすすめてきた運動の力が、第一のたたかいでは、具体的な形にできたという点です。破綻してしばらくは、とりつけ騒ぎのように契約者からの問い合わせ・クレームが殺到しました。お客さんにきちんと説明できず、職場からは悲鳴が届くという状態でした。とりわけ外勤の仲間は直接お客を抱えているわけですから、契約者保護という問題が何より切実な要求だったのです。自分たちの雇用や処遇が不安なのは当然としても、「契約者を守れ」という要求は「ためにする要求」ではなくて、彼らの何より切実な要求であり、これを最後の最後まで握って離さなかった。これが、このたたかいの特徴ではなかったかと思うのです。最初は、自動車保険で車両入れ替えも禁止し「他社で新規で加入」などととんでもないことを言っていた金融監督庁も、交渉で改善させたりもしました。小さなことかもしれませんが、契約者保護機構のスキームを一部でも変えさせたこともすごいことではないかなと思います。
 三点目は、両支部の仲間が、本当に私や全損保の他の支部地協の仲間にいろんなことを教えてくれたたたかいだったということです。本当に教科書のないたたかいでした。何をどうしたらよいのかわからず、いきなり金融監督庁に行くというところから始まったたたかいです。全国には2000人の内勤、外勤の組合員がいて、みんな契約者からたたかれているわけです。自分の先も見えないでどうしたらいいのかという状態の人たちが全国に点在している。どうやったらバラバラにならないでいられるのか。一つとりくみの中心にすえたこと、それは情報のない全国の仲間に、些細なことでも情報を流すことは一生懸命やろうと決めたのです。大変でしたがほぼ1週間に1号のペースでニュースを出したと思います。職場では情宣紙だけが情報源で、それをみんなが待っていて読むということが第一の職場ではつくられました。組合が情報を伝えるということがどれだけ大事かということが学んだことの一つです。
 第一でも当初は、いつまでも旧経営陣をうらんだり、身内の執行部を批判する人もいました。たたかいがしんどくなると、相手が誰なのかがわからなくなることはよくある話です。しかし、第一のメンバーはたたかいのなかで、たたかいの相手が誰かということについてはっきりさせ、最後までみんながゆるぎなくまとまりました。たたかいの相手が誰かを共通の認識にすることで、お互いの信頼が築かれる、そのことを第一の仲間は教えてくれたと思います。
 そして、何より執行部が本当に献身的に、めちゃくちゃに、体を張って寝食を忘れて頑張ったと思います。私自身も、この1年は本当によく働いたなという自負があります。そういうたたかいのなかで、数多くの人間ドラマがありました。外勤支部で、たたかいの最中に肝臓癌で倒れた執行部の人がいました。しかし彼は、1月に保護機構へ移行が決まった団交に入院先から駆けつけてくれました。たたかいを見届けてから、残念ながら他界されました。別のある人は、たたかいの最中に息子さんが結婚式を挙げるという話になり、第一火災からは祝電もないなかで、全損保委員長の名で届いた祝電が、どれだけありがたかったか、ということを泣きながら話してくれました。いよいよ会社を整理する3月、会社の書庫の後片付けをしていた年配の女性が若い女性に「私たちの会社にちゃんとした労働組合があってよかったね。わずかでも一時金がもらえるのは、うちの組合が頑張ってくれたからなのよ」と話していたと。それを、第一支部の委員長が聞いていて、「今日嬉しいことがあったんです」と夜中に目をうるうるさせながら私に語ってくれました。微々たるものですが、その値打ちを受け止めてくれる組合員がそこにいた。そういうたたかいができたのが第一のたたかいだと痛感しました。第一外勤支部の解散集会に同席させていただいたことは私にとって本当に一生の財産だと思っています。この時ほど全損保・地協へのお礼の言葉を皆からもらったことはありません。全員が、全損保はどれだけ素晴らしいか、地協が本当にありがたかったか、を口々に語ってくれたのです。会は終始明るくなごやかにすすんだのですが、そろそろ閉会となったときに、挨拶をした岡山の分会委員長がいきなり男泣きを始めたのです。そしたらそれまで明るく振舞っていた全員が号泣をして、みんながものを言えない状態になったのです。この場面を私は忘れることができません。ここに第一のたたかいが凝縮されていたと思います。





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